本日は、「チャイコフスキー」、タイトルだけで、なんの知識も無く行ってしまいました。サプライズです♪ なんと指揮者に、ヴェロ・ペーン・・ 嬉しい、見た瞬間に分かってしまった。小気味の良い音捌きを、以前見てから大好きなのです。
音楽: ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー
装置・衣裳: ヴァチェスラフ・オクネフ
チャイコフスキー:ウラジーミル・マラーホフ
分身/ドロッセルマイヤー:ヴィスラウ・デュデク
フォン・メック夫人:ベアトリス・クノップ
チャイコフスキーの妻:ナディア・サイダコワ
王子(若者/ジョーカー):ディヌ・タマズラカル
少女:ヤーナ・サレンコ
ヤーナ・バローヴァ、マリア・ボムポウリ、アニッサ・ブリュレ、ソラヤ・ブルノ、
エロディー・エステーヴ、ヴェロニカ・フロディマ、マリア・ジャンボナ、ステファニー・グリーンワルド、
針山愛美、ヨアンナ・ヤブロンスカ、エリナー・ヤゴドニク、菅野茉里奈、アナスタシア・クルコワ、
ワレリア・マナコワ、ニコレッタ・マンニ、サラ・メストロヴィック、ナターリア・ミュノス、
クラジィーナ・パヴロワ、クリスティアー ネ・ペガド、巣山 葵、寺井七海、
ヴェレーナ・サーム、クセニア・ウィースト
マルチン・アロヨス、ゲヴォルク・アソヤン、ミハエル・ファトゥラ、アルシャク・ガルミヤン、
ドミニク・ホダル、アレクサンドル・コルン、クリスティアン・クレール、マリアン・ラザール、
アルトゥール・リル、ウラジスラフ・マリノフ、エイメリック・モッセルマンズ、アレクセイ・オルレンコ、
ハビエ・ペーニャ・バスケス、ケヴィン・プゾー、スフェン・ザイデルマン、
アレクサンドル・シュパク、デイヴィッド・シミック、フェデリコ・スパリッタ、
マルチン・シィマンスキー、ウリアン・タポル、メフメト・ユマク
指揮:ヴェロ・ペーン
演奏:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
恐るべし、ボリス・エイフマン ・・ そくぞここまでマラーホフに対して頑張ってくれた事。ファースト・コンタクトはアンナ・カレーニナ。観たときから、この振付家は普通じゃ無いって思ってたし、哲学的な表現を好み、舞台の隅々まで、光を通した色、醸しだす雰囲気に徹底的な美意識を持っている(好き嫌いは何とも言えないが・・)。 また演出はあくまで真摯に向かう姿勢、強さ、直接的なのが大好き。今回も好きか嫌いかが別れると思いますが、概ねチャイコフスキーを演じたマラーホフ、フォン・メック夫人のクノップには、みなさん悪い印象は無いと思います。 ホルスト・ケーグラー曰く、「千年に1人のダンサー」って事らしいのです。千年生きてる訳では無いので判りませんが、「壮絶(または、たまげた)」って表現するしか無いと思いました
交響曲5番・第1楽章からですね。悲愴・第4楽章、弦楽セレナーデ第2楽章、同3楽章、その他知らない楽曲、がいっぱいでした。交響曲6番・悲愴がバレエとぴったり来る。全然、・・ 悲愴~XXのXX~ ってタイトルロールがあっても良いくらいに劇的な感じを思わせる。バレエは一つのパートでは、変調したりってことがわりと少いこともあり単純になり易いし、ほぼ通しでダンサーのレヴェランス迄一気に行くが、この方がとっても劇的な感情表現が出来るし、帰って面白かったと考える。先日小澤のサイトウキネン、復帰と弦楽セレナーデを聞く機会が多くあり、こんな状態で聞けたのは効きました。 いやもちろんアンナ・カレーニナの1楽章の使われ方から、やっと復帰したと思ったら、今度は2楽章、3楽章だもの・・。 「悲愴」すきですね♪
内容ですが、書けないかもしれません
実はあまり理解できていません。パンフを読んでもいまいち書いているイメージと合ってこないし、一応全体の流れは観てて分かります。(って合っているか分かりませんので話半分くらいで!)
チャイコフスキーは若い娘と結婚して、楽曲を創作して、悩みぬいて死ぬのです。 多分物語はこれだけで、フォン・メック夫人、少女、妻って彼の心に土足で入る女性たち以外はすべて幻影なのです。創作したイメージ「幻想的で至上の美に満ちた白鳥たち」であり、分身のドロッセルマイヤーであり、王子であり、廃退的な衣装を纏った群舞たち。彼のバレエ組曲からの白と黒の幻想たち。
オープニング、彼は、ベッドに横たわり、ピンライトに浮き上がります。苦しみ、分身と幻想に引きづられ、色のコントラスト、悪と善の識別が一目瞭然。ビジュアルなイメージがそのまま展開する。観た事がない動き。カラボスと部下たちが、チャイコフスキーの心のなかまでも弄び、精神が分裂しかけの彼の恐怖を煽る。(見ればこの言葉しか思いつかない) ナディア・サイダコワの妻役が登場する。強いなって感じた。この時こんなオーラ? 彼の分身がベッドから起き上がる。びっくりした。 気が付かなかった。とても若く色気のある男性。分身以上の存在。愛するミューズ。後に2人とも裸になり去っていく。超心理的なゲームを観ている様で、また次々に登場するキャラクターたちが、至上の美しさを光をバックにして、ある時はほのかな赤と白、ある時は青とポイントの赤と白、交響曲5番 第3楽章の物悲しいワルツが展開され出してからは、そのなかを「白の白鳥たち」が舞います。なんと美しい取り合わせなのでしょうか、これに気づかないなんて・・って思いました。この流れがフィナーレ迄 ・・・・ 続くのです。 すべてが対比。善と悪。 観てて辛い。 そうやっぱりボリス・エイフマンの真骨頂。 ヤーナ・サレンコは、ハツラツとした少女、ロングのプリーツスカートが、妙にこの舞台で新鮮でパールピンク、白などとても少女のイメージにぴったり来る。 男性2人と彼女は高名なチャイコフスキーをみつける。一瞬で心ゆらす女。 でも女性嫌いの彼は一時的な感情で興味をもつもののやはり葛藤になってしまう(その先にあるものに期待してしまい、自身の事を鑑みれなかった)。 可愛いだけに余計なのか、そんな事に関係なく自身の心の問題なのか、はっきりとはここでは表現を抑えていた。 「黒い衣装を着けた男性たち」の登場。ロットバルトたち?なのか?それとも欲求なのか。とても美しいとは言えない群舞。でも必要悪であり、また「白の白鳥たち」に対しての対比。 続く・・作曲をしているときの安堵感、考えている時の安定、観てて涙が止まらなくなった。 いつまで続く?この辛さ・・ 酷さ、これぞ緩急だと思いました。 しっかりエイフマン・マジックにはまりました。彼の描く世界観・芸術観。
舞台が美しいほど悲しくなる
フォン・メック夫人を演じたベアトリス・クノップ。 この人巧いって思った。カラヴァッジオの時にメディアで観てて凄い人って思ってた人だった。やっぱり技術が凄いし、それ以上の存在感が彼女を物語ってた。しっかりとポイントになっている。最初フォン・メック夫人の意味が解らなかったが、出てきてからいきなりハッキリと意識出来た。 ホントの意味での彼の援助者であった。
2幕は交響曲5番・終楽章からと思われます。今自信はありませんが、間違ってたら指摘願います。この幕では堕ちていく天才を描き出します。楽曲はどんどん劇的な主題を奏でて舞台は赤に包まれていきます。呆然とした彼が上手に置かれた椅子の座り込み、展開される美しい風景を観ること無く、もはや華やかな幻想、彼が描きたかった美の世界も見えない状態になり、苛まれます。
ヴィスラウ・デュデク演じる分身が、バーでレッスン。そこへ少女サレンコが現れ、パ・ド・ドゥが始まります。(この演目初めて?) す~っと現実に戻ったチャイコフスキーは少女を見つけ、彼女も彼に夢中です。無理やり手を取り戻す分身。とにかくこの場面は美しかった。こんなトロワは観た経験が無い。でもまた現実逃避してしまう彼。 壊れていく事から、またすべてから逃避する彼。分身が現れては消え、王子になり、白鳥たちがもの悲しげに王子、いや彼から離れて、どんどん離れて行きます。いつしか男性だけになり、快楽に溺れ、壊れて死を迎えます。ボレロを思われる巨大なテーブルが彼の死を彩っておりました。 でも死ぬ前の彼の役作りでは、少し安堵、ほほえみが有った様に感じました。これ気のせいかもしれませんが、妻との最後のパ・ド・ドゥ?で壮絶な場面を目撃しますが、これで自分も処理する準備完了の安堵なのでしょうか。 100人居れば100通りの解釈も可能ってことなのかしら?
壮絶って書きましたが、またたまげたってことも併せて、「愛のパ・ド・ドゥ」は至上の演技。
簡単に書くとこんな事になりました。これは内容ではなく、わたしのこころの感じ方でしょう。書いている事が自分にしか理解出来ない事ばかりかもしれません。ごめんなさい
いや~とんでもなく、芸術的な凄い舞台でした
またまた好きだと言える演目に出会う事が出来ました
10ヶ月ぶりですが、表紙のページ更新してしまいました♪
こんなの見つけました〜
返信削除http://show-case.in/contents.aspx?id=43&cid=10&scid=11